aihachi’s diary

2016年元日スタート。日々の生活で面白いと感じたことを書けたらいいなぁ。現在の関心事:フィギュアスケート、クラシック音楽

スケート教室~10回目~美しい景色を見るためには

 昨日はスケート教室10回目。9回目と10回目の違いはあったかなぁ。

前に教室が始まる前になるべく長く滑って氷に慣れておきたい、と書いたことがある。その方がよいに違いないが、きのうはアリーナに着いた時間が遅く、教室が始まる前に滑る時間がなかった。

 教室が始まると、準備体操をした後、最初に足慣らしというのか、リンクを左回り2周、右回り2周位滑る。きのうはそれで大丈夫だった。ということは、だいぶ氷に慣れて怖さがなくなったのだと思う。

 今月も新しい方が入られて先生とマンツーマンで練習されているが、昨年、私がスケートを始めた時の姿を見ているようだ。まず、氷上を歩くことから始めるのだ。歩くだけで体がかっかと熱くなったなぁ、と思い出される。

 教室の時間は45分間、この設定はどのようにして決められたのだろう。始まればあっという間である。先生も、先に進みたいという気持ちがあるのだろうか、きのうは、後方のジグザクに時間を取りたいということで、ひょうたんから始めた。

 前方ひょうたん、後方ひょうたんをしたときに、両腕を前方にのばして手の指先をつけて円を作る姿勢で滑った。このことで前かがみにならない姿勢を作った。

 その後、前方ジグザグ、後方ジグザクをやった。自分の姿は見えないが、仲間の滑っている姿はよく見える。周りを見られる余裕が少し出てきたかな。きれいな滑りは、よい姿勢とスムーズな体重移動からもたらされるな、と思う。きれいな滑りは見ている者にストレスを感じさせない。そこが、先生と私たちの違いだ。

 練習時間の最後に、5人ずつの2グループに分かれて、三角ポストの周りを5人で手を繋いで左回りに滑った。左足はそのままで、右足だけひょうたんで、5人で息を合わせないとうまく回れない。イチ、ニィと声をかけてうまく回ることができた。来週は右回りをやります、と言われた。右足も、左足も同じような強さでけれるようにしたいということだった。

 後ろ向きに滑る怖さの克服、ということを何度も書いてきたけれど、これはだいぶ薄らいできたように思う。

 羽生選手が、壁を一つ越えるとそこには次の壁があった、と言ったが、私のような初心者レベルでは、壁続きだ。それを、楽しくないと思って止めてしまう人もいるかもしれない。楽しいと思えるのは、自分の身体がコントロールできている、と感じた時ではないだろうか。

 その域まで届いたら、感激するだろうな。

スケート教室~9回目~同じ釜の飯を食う

 昨日はスケート教室9回目でした。45分間の教室での練習内容は7回目で書いたのほとんど同じです。個々が少しずつ上達しているのには違いないのですが、皆が後ろ向きのジグザクで奮闘しています。このハードルを越えなければ先に進めません。

 この練習一人でやっていたらどうなんだろう、と思います。ハードルを越えることは自分自身がやるしかないことはわかっています。でも、練習過程で、むずかしいねぇ、と嘆いてみたり、がんばろう!と励まし合ったりできる仲間がいることが、どんなに助けになることか。

 『同じ釜の飯を食う』ということわざが思い浮かびました。「ある程度、長い期間を一緒に暮らし、いろいろな苦労などを共にした場合、親しい仲間であることを言う時に使うことば。」という意味です。

 近い将来に皆がこのハードルを越えて、もっともっと滑ることを楽しめるようになることを願っています。See you next week!

 

 

 

 

身体を動かす楽しさ

 今日は最近感じている身体を動かす楽しさについて書きます。

 振り返って見て、小、中、高校時代までは体育の授業で身体を動かしていました。小学校の時はお昼休みには校庭に出て、鉄棒で難しい技に挑戦するのが楽しみなような子どもでした。中学校で卓球部、高校で器械体操部に入り毎日放課後練習しました。体育の成績はまあまあでしたが、部活動で県大会を目指すような気持ちは全く持っていませんでした。私の通った中学では、当時バスケットボール部が県大会に出場できる実力のある部で休日も休みなしに練習していました。私は、そこまでやりたくない、がんばれないという気持ちで卓球部を選んだんだと思います。

 大学時代は運動するのは体育の授業だけになりました。何のご縁かウエイトリフティング部のマネージャーになってしまいました。そして、社会に出ると体育の授業はなくなり、休日に何かするわけでもなく、全く運動と無縁の生活になりました。そんな生活が30年位続きました。

 50を過ぎた頃だったか、菊地和子さんの『50歳からのきくち体操』という本に出会いました。読んでみて、やっぱ身体を動かさなきゃダメだなと思いました。年齢が上がっても、自分で体を動かせば筋肉を維持することができます。マッサージや整体のように人にしてもらうものにはその働きがないことが、実例と共に書いてありました。

表紙に、・体が変わる・心が変わる・生き方がかわる とあります。鍛えない、がんばらない、人と比べない!とも書いてあります。

ページをめくって、写真を見て、説明を読んで自分でもやってみました。開脚をしたときにあまりの開かなさに驚きました。高校時代に体操をしていた時のイメージのままだったので問題なく開くと思っていたのです。30年以上経っているのですから身体も変わっているはずです。じゃ、きくち体操を続けたらどのように自分の体が変わるか見てみようという気持ちになりました。記録していないので、正確な日数がわからないのですが、開脚が開くようになるのにそれ程かからなかったように思います。

 今はこの体操を続けていないのですが、2年前から公民館の太極拳クラブに入って、週1回の練習を続けています。2時間の練習の前半でストレッチや体幹を鍛える運動をやり、後半で太極拳の動きをやります。家で練習することはほとんどなく、週1で効果があるのか、と思っていましたが、これがあるんです。体の柔軟性、体幹の筋力も確実に増しました。体は変わります。そして、体に自信が持てるようになると、気持ちの面でも何かやってやろうという意欲が湧いてきます。これが、心が変わるということでしょう。そして、生き方が変わるにつながっていくのでは。

 スケート教室のことも前に書きましたが、今の自分はできないことにチャレンジできる気持ちを持っています。身体を動かした後の爽快さ、チャレンジ精神を持ち続けることができること、そんなところがいいです!

 

スケート教室~7回目 

 前回初めての自主練のことを書きましたが、昨日、その後初めてのレッスン、トータルで7回目のレッスンに行ってきました。

 アイスリンクは午前10時にオープン。レッスンは11時15分に始まるので、レッスン前にできるだけ長く氷に乗っていることが重要です。しばらく足慣らし?しないと氷に馴染まず、怖さが抜けません。怖いままでレッスンの時間が始まってしまうのはもったいないです。昨日はレッスン前に40分位足慣らしができました。これで準備OKです。

 4月から始まった教室ですが、考えてみると45分間の練習でやっている内容はあまり変わっていません。

 1.助走をつけて足を伸ばしたまま揃えて滑る。

 2.1の状態から膝を曲げて滑る。

 3.前向きのひょうたん

 4.前向きのジグザクグ

 5.後向きのひょうたん

 6.後向きのジグザグ

ここまでやると終了時刻が来てしまいます。

 私も7回目のレッスンにして初めて、他のメンバーと同じ内容の練習ができました。

3.5.のひょうたんは左右の足に体重を同じように乗せればよいのでやりやすいのですが、4.6.のジグザグは右足で蹴ったら左足に体重を乗せるという体重移動と体重移動しながら両足とも滑らせる、というのが難しく、流れるように滑って行かず止まってしまいます。先生は簡単そうに滑っているのに。

 それから、後向きに滑るというのがとにかく怖くて、足元を見てしまう、すると腰が曲がってお尻が出てしまう、この姿勢になるとスケートがうまく滑りません。思い切って頭を上から釣られているような感じで顔を上げた姿勢になるとスケートが滑ります。なめらかに滑っている人は姿勢がきれいです。この後向きで滑る怖さを克服しなければ上達はむずかしいでしょう。

 レッスン後のフリー滑走の時間の使い方も見直さなければと思います。週に1度しかリンクに来れないと思うと休みなしに練習してしまうけれど、どうも体力的についていっていないようで、転倒なども起きてきます。効率的な練習をするには休憩を入れた方がよさそうです。

 昨日は練習後頭が少しふらつくような感じがしました。疲れ過ぎたのかな、と思いましたが、もしかしたらヘルメットのせいかもしれません。ヘルメットは少し重みがあるので長い間被ったままでいると首に負担がかかるのではないでしょうか。自信を持って赤ヘルを卒業して、ニットの帽子を被れるようになりたいものです。

 

 

 

 

初めての自主練

 4月にスケート教室に入った私ですが、週一の練習を続け、5月20日が6回目の練習日でした。2回目まではバランスを崩して転倒し痛い思いもしましたが、3回目からは転倒することがなくなりました。痛い思いをしなくなると、現金なもので練習が楽しくなってきます。でも、教室で先生が教えてくださることをマスターしてできるようになったわけではありません。

 私はスケートを甘く見ていました。スケートで前後左右自由自在に滑るのは本当に難しいです。私が今まで試合やアイスショーで見ていたスケーターの皆さんは長い間のたゆまぬ練習の積み重ねがあったからこそ、あの素晴らしい演技ができるのだと身をもって感じています。

 昨日は教室の日ではなかったのですが、招待券があったのと時間の都合がついたためアイスアリーナに出かけました。初めての自主練です。自主練したら後ろ向きのスネーク滑走ができるようになるんじゃないかと感じたのです。

 教室で教わったことを思い出しながら、一人で練習を始めましたが、どうしても思うように滑りません。そんな時はついついAさんを頼りにしてしまいます。Aさんはあと3年で80歳になるそうですが、身のこなしが軽くスケートがとても上手です。そして、誰にでも親切に教えてくださいます。

 教えてもらったことがすぐにできれば苦労がありませんね。Aさんに教えてもらって、頭では理解できたことが、体の動きとすぐには結び付きません。また、しばし一人で悪戦苦闘しました。

 練習を始めて2時間経った頃でしょうか、ふっと滑る感覚がつかめました。私の脳の中でついに回路が繋がったのでしょうか。できなかったことができるようになる、子どもの頃はたくさんあったのに、大人になってからはあまりそういう機会がありません。

だから、とても嬉しいのだと思います。

 昨日は、去年2か月だけ教室に入ったときの仲間が私の他に3人自主練に来ていました。偶然です。皆がスケートできれいに滑れるようになることに憧れ、リンクに吸い寄せられているようです。

朝霧裕さんのお話をお聞きして

 昨晩、S夫妻の結婚25周年・歌う会10週年記念イベント『みんなありがとう!!~感謝の気持ちを込めて』に参加しました。熊谷さくらめいと、月のホールにほどよく参加者が集まりました。立正大学のボランティアサークルこんぺいとうのメンバーで、歌う会創立当初の方と現役大学生の方がペアで進行され、とても心温たまる会になりました。第2部の歌う会、最高に盛り上がりました。

 今日は第一部の朝霧裕さんの講演の内容を紹介しつつ、感想など書けたらと思います。

 朝霧さんは筋肉の難病ウェルドニッヒ・ホフマン症のため立つことができず部屋の中で移動するときはヘルパーさんに抱っこしてもらうため、相性が「ダッコ」になったそう。24時間の介助サポートを得て、さいたま市でひとり暮らしをされています。現在は13人の女性のヘルパーさんが交代で介助しているそうです。

 子ども時代から夢を叶えた現在、そして願いを語ってくださいました。

 まず、印象に残った話としてお母さんの介助付きで1年間幼稚園に通ったこと。幼稚園の子どもたちは障害のあるなしの区別なく接するので、たくさん友だちができて楽しかった。ところが、お母さんと二人で外に出ると、子どもは車いすに興味を持ったりして近づこうとするが、大人が近づけないようにして友だちができなかった。悪いことするとああなちゃうよ、のような言い方をされることもあり、自分の身体って悪いのかなぁと思ったそうです。

 その後、朝霧裕さんは12年間養護学校に通うことになります。普通の学校に通うという選択肢もあった訳ですが、弟さんのこともあり、ご両親の障害の有無にかかわらず二人の面倒をみたいという考えで、養護学校を選択しました。朝霧さんは養護学校の中では障害が軽い方で、出来ることは自分でという学校の方針からリーダー的な役割をすることが多く、文化祭など中心になって活動しとても楽しい学校生活を送りました。朝霧さんは、学校の選択については、こちらがよい、という正解はなく、その子が輝ける場所がよいとおっしゃっていました。自分にとっては養護学校がよかったと。

 それから、養護学校には重度で自分で動けない子どもたちもいたけれど、その子たちは、嬉しいことや嫌なことなどを、わーって声を出して全身で表していた。それを見て、これが表現だって思った。この体験が自分の表現の原点になっていると。この話を聞いた時に、大人になってから自分の本当の気持ちを声を出して、とか全身で表すなんていうことしてないなぁ、と思いました。

 養護学校を卒業後、朝霧さんは施設や病院に入ることを選ばず、コンピューターの専門学校に進みました。朝霧さんは車いすのためエレベーターが必要だったり、トイレ介助も必要なのですが、この専門学校に電話で問い合わせた時に、エレベーターはありますよ、トイレ介助は職員でやりますから一人で通って下さい、と言われたそうです。実際に入学してから、エレベーターが止まり、男子学生が抱えて7階まで連れて行ってくれたことが多かったそうです。心がほっこりするお話です。朝霧さんが車いすの入学者として種を蒔き、その後後輩たちが続いたそうです。

 2年の専門学校を卒業していよいよ社会に出るというときに壁にぶつかりました。介助が必要ということで全く採用されなかったのです。そして、2年間家で生活していました。明るい性格の朝霧さんが、初めてうつのような状態になったと。見かねたお母さんが、仙台の「ありのまま舎」に行ってみたらと勧めました。朝霧さんは、ありのまま舎に着いたら、包丁で喉を刺したら死ねるな、と思って出かけたそうです。ところが、そこで朝霧さんが思いつめている様子を察して、仙台観光に連れ出したり、よく話を聞いてくれた方との出会いがあり、やりたいと思っていたことをやろうと思え、一歩踏み出すことができたそうです。

 それが、歌うことや詩や文章を書くことです。ライブをするような場所は長い階段を下りて地下にある場合が多いのですが、初めて行ったときに、車いすは危ないなぁ、と

言っていたところが2回目に行ったらスロープができていた、など、よいお話が聞けました。だから、朝霧さんは、危ないところに私が最初に行ってやろうと。

 朝霧さんは、現在50代になられたSご夫妻が蒔いた種で花を咲かせることができた、だから、今度は私が種を蒔いて、子どもたちが花を咲かせられるようにバトンを渡していきたいとおっしゃっていました。

 障害の有無、世代を問わず、誰もが輝ける社会にしたい、一人でできないことは100人でやればいいじゃないですか、という力強いメッセージを朝霧裕さんから受け取りました。ありがとうございました。

朝霧さんのご健康とさらなるご活躍をお祈りしています。

 

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人との出会い

最近知り合ったJさんは50代前半の女性で、身体障害がある。移動は車いすを使っている。Jさんと話していて、私はこの年になるまで身体障害をお持ちの方との関わりがあまりなかったし、彼らの生活についても知らなかったなぁと思った。

 

Jさんは、昔は大変だったけれど今はよい時代になった、夢だと思っていたことが現実になっていると言う。例えば、昔は駅にエレベーターがなかったから、車いすを持って階段を上がってもらわなければならなかったけれど、今はちょっとした駅ならばエレベーターがあると。その日も、これから一人で電車に乗って出かけるというので私は内心びっくりした。車いすの人と電車に乗って出かけたことある?今度一緒に出かけましょうか、とプロポーズされた。

 

彼女は同じように身体障害のある方と結婚し、二人で暮らしている。結婚25周年を迎えるそう。彼女たちの生活はヘルパーさんたちに支えられているとも言えるけれど、身体障害があるからいろいろなことを我慢せざるをえないのではなく、できる方向に進めてきた本人たちのたゆまぬ働きかけとそれに応えてきた行政とか、凄いなぁと思う。

彼女たちは、皆さんの支えがあったからこそ迎えることができた結婚25周年ということで感謝の気持ちを込めてイベントを企画している。これも凄いし、素敵だなぁと思った。

 

この年になっても人と出会って学ぶことがたくさん。人との出会いが人生を楽しくするとつくづく思う。

 

 

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